Eishinofficial

『メビウス症候群』という難病と闘う1人の大学生の何気ない日常ブログ

(ピースプロジェクト)「平和を繋げよう~曽祖父の海行かば~」



それは、戦時中のラジオ放送で日本軍らを応援するために作られた軍歌

 
現在も追悼式などで慰霊歌として歌われています


命の誕生


それは、一人一人の命を繋げて出来た奇跡です


自分もそうでした


多くの命が繋がり、誕生しました


その繋がりには悲劇のドラマがありました


そんな悲劇のドラマの2人の主人公について触れていきます


2011年

 曽祖父は97歳で永眠しました

そんなお葬式である写真が飾られていました


戦時中の曽祖父の軍服姿です


曽祖父が軍服に付けていたバッチは少し変わったバッチでした

後日、日本史の専門である祖父に問い合わせると

そのバッチは日本軍では珍しい航空隊だというのが分かりました


航空隊

それは後に特別攻撃隊となるものでした

それから明らかになるのは、3年の月日が流れてからでした

小5の頃、曽祖父の自宅を共に整理をしていたところ

ある写真を見つけました


曽祖父が若い頃の写真


同じ場所にある記録が残されていました



そこに「特別攻撃隊」の文字がありました


「まさか、あの特攻隊?」


そう、曽祖父こそが多くの試練から私達に命を繋げてくれた主人公だったのです


この年の冬休み、自分は自宅で映画「永遠の0」を家族で鑑賞していました

その時、父がある事を口に出したんです


「実はね、曽祖父もこの攻撃隊にいたんだって」

それは特攻隊の事でした


曽祖父が歩んだ人生は自分が想像した以上に過酷なものでした

1937年

時代は遡り、88年前

曽祖父は当時15歳で知覧の飛行分校に入り、航空について勉強していたそうです

3年間で卒業した後、鹿児島航空隊に配属

鹿児島海軍航空隊


現在の鹿児島市郡元に基地があったとされる部隊


一時はそこで予科練生として日々訓練をしていたそうです

1944年

本格的に大きく対戦が動いた時


曽祖父は宮崎の特別攻撃隊に配属される事になるのです




そして、出撃を待ちました

1度出撃していたそうですが、なぜかその時
敵軍機はあまりいなかったのです


そして、帰還

次の出撃に備えましたが、順番はなかなか回ってきませんでした

その間も何度も攻撃の練習を重ねましたが、気づけば夏

1945年の夏でした


そして終戦


曽祖父が出撃したのは、鹿児島航空隊と宮崎特別攻撃隊の1度のみ


鹿児島航空隊は、航空戦のみでした


曽祖父は生き延びました


パイロットにはならず、戦後は県職員として航空関連の管轄に勤めていたそうです


もし、あの時出撃していたら

そう考えると深いですね


では続いては2人目の主人公です


こちらももう1人の曽祖父です


商社家の三男として生まれ、兄妹は多くいたそうです

両親は先祖代々の商社を経営していました

その後、兄2人は県外へ出征  

曽祖父は旧制中学校(現在の高校)卒業後、旧制高校に入学

その途中である20歳時に召集状が届き、出征

配属されたのは朝鮮分隊

ですが、足が不自由だったため
歩兵としてではなく、砲兵としての召集でした
実は、1歳児の頃に曽祖父をお世話していたという女中さんのミスで抱っこしている途中に曽祖父を地面に落としてしまい、重傷を負っていたのです


後に工兵に異動し、指揮を執り

戦争末期には輜重兵として日本から多くの物資が届く、貿易所に配属されていました

曽祖父曰く、いつかは朝鮮に連合国軍が上陸すれば、貿易所が第一線になる事は予想されてたので毎日が命懸けだったといいます


でも、多くの戦友が歩兵として最前線で戦っているのに自分が戦えないのはとても悔しかったそうです。それを考えると「ここがもし、第一線となるならば自分は大きな誇りを持って犠牲になれる」と思ったそうです

1番怖かったのは、沖縄戦を知らせを聞いた時

遂に朝鮮に来ると予測した分隊は、裏方の兵科にも完全武装を指示

一応、裏方も武器は持っていたものも

歩兵と砲兵などの表側違い、あまり攻撃訓練を受けていない方が多かったため

いざと言う時は戦わずして集団自決をするよう大将に言われていたそうです


いずれにせよ、犠牲のみ

降伏は許されませんでした


曽祖父は砲兵召集だったので訓練を受けていたのですが

それでもわずか少数

少数で攻めても、相手は大軍


敗北しか見えませんでした


次々と大本営からの知らせが届きます


日本列島の空襲、広島・長崎の原爆投下

そしてロシアの宣戦布告

それにより、満州軍の応援として朝鮮分隊からも一部派遣されました

裏方兵科もそのままの役職で派遣


曽祖父はそのまま貿易所に残りました


8月は1度しか貿易船が来航せず

そこから物資補給は途絶えました


そう、大東亜共栄圏が全滅した証でした

その後から貿易所は防衛ラインとなりました


いつ、航空戦が起きてもおかしくありませんでした

緊張感が今まで以上に固まる中、玉音放送の知らせを聞き

終戦を迎えました

終戦後も一時期、ロシアが攻めてこないよう守ったと言いますが、ロシアは日本のポツダム宣言受託を聞いて、満州を占領した後に停戦

何も無く、無事に帰国しました


その年に小学生時代からの友人であったという曽祖母と結婚

ちなみに曾祖母

あの今和泉島津家の直系の子孫だそうです

ちなみに祖父方の実家は、島津義弘家の分家だそうです


その後、大卒の資格は取得せずに

商社の跡を継いだそうです


ちなみに、兄2人は海軍に配属されてたそうですが

そのまま配属先から近かった首都圏で残りの人生を過ごしたそうです

ちなみに曽祖父は今も健在です



以上が、2人の主人公のドラマでした


1人目の主人公は、小2の時にお亡くなりになったため、今まで周りに聞いてきた話をまとめました


2人目は本人に直接聞いた内容を基にまとめました   

 
特攻隊に配属されて、生き残った曽祖父

そして、朝鮮分隊に配属されて最後は第一線の防衛ラインで生き残った曽祖父

命はこうして、繋げられました

1人目の曽祖父は、祖母と父などに聞き、取材も行いました
以前には、再び特攻平和会館に行きました
曽祖父が見た背景 、それは想像以上に過酷だったのだと思います

2人目の曽祖父は、本人に小学の頃に直接聞きました

でも、最初はあまり話してくれませんでした

話しづらそうにしてました


相当苦しい過去だったのだと思います

なんとか、曾祖母の説得によりやっと話してくれました

でも辛そうでした


きっと今も苦しんでいると思います


日本が犯した、最大に罪が重い過去です

ピースプロジェクトを2部に分けて、書いてきました

これからは私達がこの戦争を伝える時が来ます

そこで、そのまましっかり伝えられるようにしておきたいと思いました


その他にもピースプロジェクトで触れたい内容が多くありましたが

それはまた後日、別の特集で触れたいと思います

もしくは来年


来年もピースプロジェクト2022を書いていきたいです

今年のテーマは「平和を繋げよう」

来年のテーマもまた決めたいと思います


ちなみに親世代は終戦の日になると、毎年小中学校は出校日で平和関係の映画作品を教室で鑑賞していたそうです

これは全国共通だったそうです

でも、これもゆとり教育導入から廃止

現在は出校日があるものも、終戦の日とは関係ない21日がほとんど

それ以外にも授業中で鑑賞する事も今は無いそうです

また、小中学校で平和学習をするところも年々減少している事も現実です

どちらも理由は「子供に悪影響(強い衝撃)を与えてしまうから」
弟にも以前、聞いてみましたがやってないそうです

僕達は当たり前のように平和学習をしていましたが、それが無くなっているそうです

道徳の教科書からも消えていました
また、小学三年生の国語の教科書では定番だった「ちいちゃんのかげおくり」も「子供の精神的に悪い!」、「子供にトラウマを生むだけだ!」などのPTAからのクレームが相次いでいるそうで、教科書から除く事を検討しているそうです

ちなみに同じ理由で毎年金曜ロードショーでは、終戦の日の「火垂るの墓」などの放送を禁止
これも主婦達からもクレームだと言われています


年々とテレビでの終戦の日の特集も少なくなりました


いつしか、8月15日は平和について深く考え直す日からタダのお盆休みに移り変わっていきました

時代の流れと言うべきなのか、風化と言うべきなのか


夜も普通にバラエティばかり

お盆休みの特番で笑っています


何も考えずに、終える8月15日


日本はあの悲劇を

あの大きな過ちを忘れようとしています


それがあって良いのでしょうか

絶対にあってはいけません


自分が1番驚いたのは、終戦の日がもうすぐ近づいてくることを友人に話すとその友人から「終戦の日って何?」って言われた事ですね

本当に知らなかったそうです

この戦争を


何年前かの「朝まで生テレビ」で終戦の日特集をしていたので、見たのですが

友人と同じように、この戦争を知らない若者が年々増加しているというアンケート結果を触れていました


日本の過ちを二度と繰り返さぬように

今年も願いたいと思います   


どうか日本が永遠と平和でありますように