Eishinofficial

『メビウス症候群』という難病と闘う1人の大学生の何気ない日常ブログ

利他を求めて広げた事業

今日、14時過ぎ頃に訃報が届きました



稲盛和夫会長がお亡くなりになったという内容でした






稲盛和夫会長は、1932年に鹿児島市薬師町で生まれ育ちました




その後は、現在の鹿児島高校と玉龍高校を卒業してから



鹿児島県立工科大学(現在の鹿児島大学工学部)を卒業



そこから当時の大手理系企業に就職しますが




すぐさま倒産危機に見舞われ




ほとんどの社員が退社したそうですが、稲森さんを中心としたほんのわずか少数が残り



新たな研究開発に没頭します





そして、新型サブスレートの開発に成功




ですが、当社では売れてもらえず





1959年遂に退職




即起業します。





その名も「京都セラミック」





それでもまだ国内では高度経済成長期真っ最中でそこまで技術が追いついておらず




どこも売ってくれる会社はありませんでした





そこで、稲盛氏はアメリカの大手企業に直談します




すると、とても重宝され




高額な契約で成立





京セラが大きくなっていくきっかけとなりました



後にその大手企業は、出資もしてもらい





外資入りします。





そこから多くの部品を開発





ほぼ取り引き先の大手企業のコンピュータ部品として使用されました



そして、他にも多くの海外企業との取り引きを行い




多くの利益を齎します




1968年、優良中小企業として第1回中小企業研究センター賞を受賞





そこから中小企業として、日本にも名を挙げていきます




そして、1971年





創業から12年にして大阪証券取引所にて株式上場






その翌年には、東京証券取引所に株式上場




急成長を成し遂げました。




そして1973年、京都セラミックを中心に日米合併企業としてジャパンソーラーエナジーを設立




太陽光発電の事業に着手しました




1974年、「電子回路用セラミック積層技術開発」により、第16回科学技術庁長官賞を受賞




1984年には、京セラを中心に訴え続けていた通信事業自由化が国会にて可決される



それと同時に京セラは、日本初となる通信事業会社「DDI」(第二電電)を設立



これは後のKDDIとなります。



1988年には日本セラミック協会の会長に就任




業界では既に大物となります




1988年には、複写機メーカー「三田工業」は経営悪化のため、会社更生法の適用を京セラに申請


これを稲盛和夫会長は受理し、支援を行う事を発表



2000年には更生計画認可を受け



関連会社として、「京セラミタ株式会社」に改称



9年間の計画をなんと2年間で終わらせました



そして、遂にこの時が来ます




2010年2月、日本航空会長に無報酬で就任




事実上のボランティアサポーターです



この時、日本航空は既に破産していました



そんな稲森会長は、「JALフィロソフィー」を掲げ



社員の意識を変えさせる事から始める意識改革を中心に、人員削減にも着手し



1万5千人の社員をリストラ解雇し



経営回復に導き




わずか3年足らずで再上場に成功




その後は、役目を終えたとして次の代に継がせました



ですが、後に日本航空は一生の恩を讃え



「名誉会長」に認定しました




そして2017年には「フォーブス」にて世界資産家ランキングで49位に選ばれ



資産額は、850億円を超えたそうです。




その後も多くの著書を執筆しながら




複数企業の経営に携わっていました




2022年8月24日午後8時25分、老衰のため自宅にて永眠


90歳でした。





後の報道を受けて、多くの著名人から追悼コメントが寄せられました。




ここまで稲盛和夫会長の来歴を振り返ってみましたが




かなりの偉業を成し遂げており




破天荒な部分がかなりあります。




まさに「経営の神様」だったという事がここでもうかがえます





ここからは自分自身のコメントとなりますが




自分が最初、稲盛和夫会長の事を知ったのは小学の頃




祖父が座右の書として持っていた本からでした




祖父が「これは、じいちゃんが仕事するのに1番大事な書物なんだ。」というので



読んでみると、かなり心に響く内容でして




「いつかこの方みたいになってみたい」




と思い、そこから経済に深く興味を持つようになりました




祖父はそんな稲盛和夫会長の著書をきっかけに海自定年退職後に実家の会社の系列会社として起業しています





今でも、当時買った本は大事に持ちながら




今日も経営に励んでいます。






「利他という生き方」



これが、稲盛和夫会長の人生を表す言葉と言っても過言ではありません





これほど、市民一人一人のために経営を捧げた実業家はいないと思います



稲盛会長は、実際に


「嘘に思われるかもしれないですが私は金持ちになりたくて、または栄華のために経営者になったわけではありません。たった1つのセラミックで多くの人々を救いたいと思い、私は色々な事業を拡げる経営者になりました。私は常に『利他』という心を大事に生きてきました。これは後付けしたのではなく、最初の小さな部品をアメリカに売りに出た時から考えていました。なんとしても、この部品で多くの人を早くでも救い出したいと思い、世界へ飛び出したのです。そしたら予想以上に売れたわけです。」



と述べています。





この日本列島最南端の地方鹿児島から世界へと行き




1代で世界的大企業に築き上げた稲森会長





鹿児島の星として、誇りに思っています





稲森会長の成し遂げた偉業は、今でも




京セラで生き続けています。





最後に



稲盛和夫会長は、跡継ぎについてこう話しています



「多くの企業が世襲として、自分の子供に跡を継がせるかもしれないけど、私にはそれはできない。それは多くのみなさんとの約束を破った事になりかねないですからね。だから私は、代わりにこの世界を救う力があるような面白い社員に是非とも社長としてこの会社を引っ張って欲しい」



と。




常に、稲盛和夫会長には「利他」というたった一つの言葉を人生にかけて守り抜いたら事に非常に尊敬しています




ご冥福をお祈りします。